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2008.04/02 [Wed]
私の個性をかたちづくるもの
この記事で友人のRちゃんと、「海外で暮らすと両国の価値観の間で揺れる」といった話を
したことを書きました。(Rちゃんコメントありがとう!)
このテーマは、私にとっても長い間 取りくんできた問題だったので、もう一度 書いておきたいとおもいます。
Rちゃんはこれを「どっちつかずの周辺的存在」と表現されていました。うまい表現です!それだけ言語化できてれば鬱々とした感情に飲み込まれることはなさそうに思う。私のときは自己同一性を確立すべく模索している時期でもあったし、「苦しい」思いばかりが渦巻いて深刻になっていました。
「疎外感?悪意をもって阻害されているわけじゃないし・・・孤独感?もあるけど一人なのが寂しいだけじゃない。この違和感を理解されないこと・日本のみんなと同じじゃないこと・同じじゃないと感じていることを理解/共感してもらえないことが寂しいのかな。みんなの常識/当然の習慣にいちいち疑問/抵抗感を覚えてしまうことが苦しい。苦しいけど私のもつ価値観からはその違和感を無視できずに逐一問題視してしまう・・・けれどそれを毎回指摘していたら確実に友達はいなくなるから一人で飲み込んで黙っているべきだろうか。でもそうやって”自分”を押し殺してつきあっていて”友達”と言えるのか?」
そして「日本人らしい価値観からずれている」と感じている自分が、海外に出れば「日本人の代表」みたいに扱われるのも「おかしい」と思った。胸を張って「日本ではこう」と主張できるほど9歳まで暮らしていた日本のことを知らなかったし、わたしのもつ価値観は住みはじめた国や旅行先の人や文化に大きく影響を受けていたから。
旅行先で、"Where are you from? (どちらから?)" と問われれば 「なに人か知りたいのよね?」と思いつつ 「住んでるのは英国で、国籍は日本人です」と答えてた。ロンドンっていうのも移民の町で、何年も暮らして永住権ももらえてたんだから "I am from UK. (イギリスから来ました)」って答えてもいいのかもしれないけど・・・自分のこと「英国人」っていう認識はなかったからねぇ・・・。
帰国して20年経とうとしている今ではすっかり落ち着いて、「複数の価値観を理解しつつ、臨機応変に状況(そのときに身を置いている国の常識)に合わせた行動を選ぶ」ということに慣れました。自分の価値観に照らし合わせて「こうしたい」という選択をしながらね。
この前 会ったとき、Rちゃんが私に対して「帰国子女のイメージが強い」と言っていたけれど、Rちゃんと過ごした大学時代はまだ孤独な葛藤の最中にいたのですよ。
それが「フツーの日本の大学生らしさ」とは異なり、言ってみれば「帰国子女らしさ」に該当するのだろうと意識しつつも、「疑問があれば教室で質問する」「自分の意見をはっきり言う」といった行動を、若干の勇気をだして、選んでいたのね。大学の外でも「見知らぬ人にも挨拶をする」「電車で席を譲る」「階段でお年寄りの荷物をもつ」それに外国人とだったら「目が合えばニッコリ」「エレベーターに乗り合わせたら会話」なんかを素直にできた。
『どっちつかずの周辺的な存在』から、さまざまな葛藤の中で自分なりの選択を重ね、行きついたところは『個』。「帰国して10年経っても”帰国子女”って呼ばれるの?私は『日本人』じゃなくて、もはや『帰国子女』っていう人種だと割り切って生きていこうか・・・?」なんて考えたこともあったけど、「批判的な目をもち、行動選択に意識的」なのを自分の個性のひとつとして、「そういう個性のある日本人」と結論づけました。当然ながら『日本人』にも関西人だとかコギャル(死語?)とかオバタリアン(これも死語!笑)とかいろいろいて、そうやって何らかのレッテルを貼られながらも勝手に生きてってるのよね。外からレッテルをつけられたからって、自らそのカテゴリーにおさまるべく制御することはない。周りがどう見ようと、自分は自分らしく、「こうしたい」「こうありたい」と思うように生きていけばいいのです。
したことを書きました。(Rちゃんコメントありがとう!)
このテーマは、私にとっても長い間 取りくんできた問題だったので、もう一度 書いておきたいとおもいます。
Rちゃんはこれを「どっちつかずの周辺的存在」と表現されていました。うまい表現です!それだけ言語化できてれば鬱々とした感情に飲み込まれることはなさそうに思う。私のときは自己同一性を確立すべく模索している時期でもあったし、「苦しい」思いばかりが渦巻いて深刻になっていました。
「疎外感?悪意をもって阻害されているわけじゃないし・・・孤独感?もあるけど一人なのが寂しいだけじゃない。この違和感を理解されないこと・日本のみんなと同じじゃないこと・同じじゃないと感じていることを理解/共感してもらえないことが寂しいのかな。みんなの常識/当然の習慣にいちいち疑問/抵抗感を覚えてしまうことが苦しい。苦しいけど私のもつ価値観からはその違和感を無視できずに逐一問題視してしまう・・・けれどそれを毎回指摘していたら確実に友達はいなくなるから一人で飲み込んで黙っているべきだろうか。でもそうやって”自分”を押し殺してつきあっていて”友達”と言えるのか?」
そして「日本人らしい価値観からずれている」と感じている自分が、海外に出れば「日本人の代表」みたいに扱われるのも「おかしい」と思った。胸を張って「日本ではこう」と主張できるほど9歳まで暮らしていた日本のことを知らなかったし、わたしのもつ価値観は住みはじめた国や旅行先の人や文化に大きく影響を受けていたから。
旅行先で、"Where are you from? (どちらから?)" と問われれば 「なに人か知りたいのよね?」と思いつつ 「住んでるのは英国で、国籍は日本人です」と答えてた。ロンドンっていうのも移民の町で、何年も暮らして永住権ももらえてたんだから "I am from UK. (イギリスから来ました)」って答えてもいいのかもしれないけど・・・自分のこと「英国人」っていう認識はなかったからねぇ・・・。
帰国して20年経とうとしている今ではすっかり落ち着いて、「複数の価値観を理解しつつ、臨機応変に状況(そのときに身を置いている国の常識)に合わせた行動を選ぶ」ということに慣れました。自分の価値観に照らし合わせて「こうしたい」という選択をしながらね。
この前 会ったとき、Rちゃんが私に対して「帰国子女のイメージが強い」と言っていたけれど、Rちゃんと過ごした大学時代はまだ孤独な葛藤の最中にいたのですよ。
それが「フツーの日本の大学生らしさ」とは異なり、言ってみれば「帰国子女らしさ」に該当するのだろうと意識しつつも、「疑問があれば教室で質問する」「自分の意見をはっきり言う」といった行動を、若干の勇気をだして、選んでいたのね。大学の外でも「見知らぬ人にも挨拶をする」「電車で席を譲る」「階段でお年寄りの荷物をもつ」それに外国人とだったら「目が合えばニッコリ」「エレベーターに乗り合わせたら会話」なんかを素直にできた。
『どっちつかずの周辺的な存在』から、さまざまな葛藤の中で自分なりの選択を重ね、行きついたところは『個』。「帰国して10年経っても”帰国子女”って呼ばれるの?私は『日本人』じゃなくて、もはや『帰国子女』っていう人種だと割り切って生きていこうか・・・?」なんて考えたこともあったけど、「批判的な目をもち、行動選択に意識的」なのを自分の個性のひとつとして、「そういう個性のある日本人」と結論づけました。当然ながら『日本人』にも関西人だとかコギャル(死語?)とかオバタリアン(これも死語!笑)とかいろいろいて、そうやって何らかのレッテルを貼られながらも勝手に生きてってるのよね。外からレッテルをつけられたからって、自らそのカテゴリーにおさまるべく制御することはない。周りがどう見ようと、自分は自分らしく、「こうしたい」「こうありたい」と思うように生きていけばいいのです。
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